★ 日本語の起源の話 ★
この記事が本当かどうかは、後のレポートを待つとしましょう。
関連して
漢字の伝来は、それほど昔のことではないそうですね。
漢字の発音(音読み)も、中国とおなじものもあるし、韓国語とおなじものもある。
そもそも訓読み=日本語だけど。
言語や文化は、不思議なものだ。
いにしえジャパン。
韓国も漢字をもっと復活していただけると、筆談もできるのに残念です。
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山 上 憶 良 と 藤 原 氏
多くの日本人は、倭国のエリートが渡来人に漢字を学び、悠久の昔から堆積されて来た和語を漢字で表記したものが『記紀』『万葉』であると思うようである。この考え方は、朝鮮半島からの渡来人が増える前から、結構な数の倭人が存在しており、わからないことがあれば渡来人に教えてもらって、日本文化を形成したという考えにつながる。
白銀母 黄金母玉母 奈爾世爾 麻佐礼留多可良 古爾斯迦米夜母
白銀も 黄金も玉も 何せむに まされるたから 子にしかめやも
この山上憶良の歌を見て、多くの人は「これらの言葉が古代朝鮮語であるはずがない、どれ一つとして現在の朝鮮語と同じ言葉がないではないか。朝鮮半島には、七〜八世紀以前に書かれた文献がないので、『記紀』『万葉』の言葉が朝鮮から伝播したとは思えない。」と言う。しかし、日本にも七〜八世紀以前のまとまった文献はない。
日韓語は同系語である (2)
山 上 憶 良 と 藤 原 氏
全栄来 (全北日報論説委員 全北道立博物館館長 韓西古代学研究所所長 文学博士) は著書『百済滅亡と古代日本』で、「新羅による半島統一・百済の滅亡」後、「民族の移動と文化交流が引き起こされ、多くの百済人が倭国に亡命・移住し、日本列島に、新しい文化の移植・開花をもたらした」と述べている。
「当時の宮廷で働く人々の出自を調べると百済人だらけである」と述べている佐々克明の言葉は、「奈良時代の文化を形成し『日本』とい国号を作ったのは百済人である」という文定昌の説と符合する。『続日本記』によれば、宮廷の人々が生活していた本拠地「飛鳥」の住民の八十〜九十%が渡来人であったというから、宮廷でどのような言葉が使われていたかが推測できる。
「山上憶良が朝鮮人であることがなぜわかるのか」という疑問について、中西進 (古典文学研究者、奈良県立万葉文化館館長、国際日本文化研究センター名誉教授) の著作『山上憶良』によると、憶良の出自について、憶良を取り巻く人間関係・歴史的環境事情から生涯を絞り込むことができる方向で論考されている。山上憶仁 (百済の宮廷侍医 憶良の父) が「白村江の戦」に敗北したとき、憶良を連れて倭国へ亡命したという古代史研究家の著書によく出会う。憶仁は、近江に居住し天智天皇期の宮廷侍医になっている。天智は亡命者の多くを近江に住ませ、六六七年、都を近江に移している。
山 上 憶 良 と 藤 原 氏
「日本書紀」によれば、「白村江の戦」で、天智天皇が百済救済のために三万に近い兵を送ったということは、大和王朝と百済王朝は血縁関係にあったことを意味していると佐々克明らは述べている。「白村江の戦」の敗北後の亡命者をさして、司馬遼太郎は「百済、国ごとの引っ越し」と語り、「百済王朝が大和へ移った」という研究者もいる。「出雲古代歴史博物館」の名誉館長 上田正昭らの対談集によれば「日本書紀は百済人を主軸にして書かれ、天皇・朝廷のプロモーター藤原氏の都合がいいように整理されている」という。
この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることの無しと思へば
この歌を詠んだ藤原道長(962〜1027)は藤原氏の全盛時代を現出した。当時、大納言以上の地位における藤原氏の占有率は百%であった。
このような段階に至る基礎を築いたのは、「大化の改新(645年)」を中心になって推し進めた百済人 藤原鎌足で、天智天皇の筆頭ブレインであった。鎌足は、それまでの実質天皇であった蘇我入鹿(渡来人)を天智と謀略して暗殺し、藤原一族を政界のトップに安座させたのである。中臣鎌足の功労を称賛して、天智は最高の姓「藤原」を賜ったと言われているが、天智の母 斉明天皇は、吉備の豪族(朝鮮人)から朝廷に入った人である。吉備王朝は、大和王朝以前、鬼の城(朝鮮式山城)を根城に日本最高の勢力をもち、吉備には仁徳御陵以前としては日本最大の古墳があるという。天智のひ孫「桓武天皇」の母は百済の武寧王の後裔である。
山 上 憶 良 と 藤 原 氏
藤原鎌足の子 藤原不比等は「大宝律令(701年)」の編纂の中心メンバーとなり、わが娘を文武天皇の夫人とし、さらに、文武の子が聖武天皇になるにおよんで宮廷内での勢力を不動のものとした。後妻との間に生まれた娘を聖武天皇の皇后にさせるに至って、藤原氏繁栄の基盤を築いた大人物とされている。
梅原猛は「奈良の都の政治は不比等の独壇場であった。不比等の下に集められたのは、知謀ゆたかな、法律、歴史にくわしい朝鮮人であっただろう。日本書紀は不比等を編集責任者とし、太安万侶など歴史にくわしい朝鮮人によって書かれたにちがいない。」と述べている。藤原氏は、千三百年にわたり、日本の政治・宗教・文化の頂点に君臨し、「古事記」「日本書紀」「続日本記」「日本後記」・・その他の史料のほとんどは藤原氏の手によって編纂されている。
徳川幕府崩壊直後の明治元年(1868年)の内閣最高幹部「左大臣 藤原道隆、右大臣 藤原家信、同従一位 藤原実美、内大臣 藤原実徳、内大臣正二位 藤原忠順・藤原宗弘・藤原資宗・藤原雅典・藤原光愛・藤原胤保・・」などからも藤原氏の勢力がいかに強力なものであったかがわかる。天皇家・藤原氏の冷泉家では、「母」を「おも(어머<omo>)」と言うそうである。
山 上 憶 良 と 藤 原 氏
百済人 藤原不比等の全盛時代 (聖武天皇の御代)、山上憶良は官職を与えられ、彼と同時に官職を与えられた人たちはすべて渡来人であったという。「作品の分析によるだけでなく、このことから憶良が渡来人であったことがわかる」と中西進は述べている。朝鮮の王朝で行われていた遣唐使が大和王朝でも続行され、遣唐使に選ばれた知識層は渡来人であったという。憶良、最澄が遣唐使に選ばれたことはよく知られている。
結論、「藤原氏」が日本民族の政治・宗教・文化の頂点に君臨しているのであれば、「万葉歌」は日本語の源点を示唆していることになる。
付 記
「万葉仮名」は朝鮮の「吏読表記」に順ずるものであり、「吏読表記」に類することが、すでに中国で行われていた。中国では、サンスクリット語で書かれた仏典を漢字の音を利用して表記していた。それを応用した表記法が「吏読表記」である。「万葉仮名」は日本人の素晴らしい発明であると述べている著書に出会うが、「万葉仮名」を自在に駆使できた人は、「吏読表記」に浴して朝鮮文化を形成していた人々の傘下にある渡来人だったのである。
飛鳥〜平安時代頃、日本には各地域の方言の外に「宮廷語」があった。『万葉集』『記紀』はこの「宮廷語」によって書かれ、作者は漢字を自在にあやつることができる宮廷の知識層、朝廷にかかわって働くエリートであった。それでは、大和朝廷で働いていた人たちは、どこを根城にして暮らしていただろうか。彼らの生活の本拠地は「飛鳥」であった。『続日本記』『姓氏録』によれば、「飛鳥地方の住民の80〜90%は朝鮮人であった」と言われている。飛鳥地方を中心に活躍していた聖徳太子は蘇我氏(朝鮮人 当時の実質天皇)の一族で、妻は蘇我氏の人である。日本で最初に建てられた寺院「飛鳥寺」は蘇我氏の氏寺である。
なぜ「飛鳥地方で使われていた言葉は朝鮮語(主に百済語)であった」と言われているかを、下記に列挙した研究者の言葉をみればわかるだろう。
「飛鳥における政治の実権は蘇我氏(朝鮮人)の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。(亀井勝一郎 他)」「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)」
「飛鳥は朝鮮文化をぬきには語れない。(司馬遼太郎・上田正昭・金達寿)」「百済から来たばかりの高官「鬼室集斯」が学頭職(文部科学大臣)になったということは、言葉の問題がなかったことを意味している。(佐々克明)」
「近畿地方に最初の統一政府をつくったのは渡来人である。(小山修三)」「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であった。宮中では百済語が使われていた。『古事記』『日本書紀』は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。(金容雲 日韓文化交流会議の韓国側代表・画家の平山郁夫は日本側代表)」
「『日本書紀』は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。(出雲歴史博物館名誉館長 上田正昭らの対談集)」「飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)」
「韓半島の言葉の上に、飛鳥、奈良時代の日本語は形成されている。(李寧熙 韓国日報論説委員、国会議員、韓国女流文学人会会長を歴任)」「古代朝鮮語と日本語は同じである。『大日本地名辞書』の第一巻の「地名総説」」
「天智天皇のサポーター藤原鎌足の名は朝鮮語の漢字表記である。(朴炳植)」
註:藤=불<pul=puj 火> 原=벌<pol> 鎌=가마<kama> 足=다리<tali>
「天智の母と妻、聖徳大使の妻、桓武の母、当時の朝廷のサポーター 蘇我氏、秦氏、漢氏、藤原氏・・は朝鮮人。(権叉根・朴炳植 他)」
「征夷大将軍 坂上田村麻呂、平安遷都の功労者 和気清麻呂、東大寺大仏の造立の重鎮 国中公麻呂、大化の改新の重鎮 安部内麻呂は朝鮮人。(金達寿・金思Y)」「人麻呂を寵愛した持統天皇の母は朝鮮人。(金思Y)」
「『出雲風土記』の編纂がおくれ、中央政府から派遣された金太理は百済人。(国弘三恵・金達寿)」「百済と日本は一体であり血縁関係にあった。(金達寿・佐々克明・洪思俊)」「平安時代までの日本文化は外国のもの。日本の王朝文化は百済と同じ。(司馬遼太郎・丸谷才一 他)」
「朝鮮半島からのエリート集団の集中的移住が宮廷文学を開花させた。(国弘三恵 他)」「『記紀』は吏読表記(万葉仮名に相当)で書かれている。(李寧熙 韓国国会議員 韓国日報論説委員)」「遣唐使は朝鮮でおこなわれており、渡来人によって形成された政府が同じことを 続行した。遣唐使にえらばれたのは渡来系のインテリ層であった。遣唐使にえらばれた山上憶良、最澄は朝鮮人。(金達寿)」
「唐への留学僧は百済人であった。当時の僧侶の言葉は百済語であった。(金達寿 司馬遼太郎 上田正昭らとの対談集)」「『大化の改新』は、藤原鎌足、安部内麻呂、金春秋、高向玄理などの渡来人によっておこなわれた。(文定昌)」
「日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、『白村江の戦』の敗北で渡来した百済人。『日本』という国号をつくったのも百済人。(文定昌)」「宮中の <御神楽><韓神の祭儀><高麗楽><高麗舞><雅楽><歌会はじめ> は韓半島の王室でおこなわれていたもの。(上田正昭・金達寿 他)」
「皇国史観」に洗脳され、古代史を朦朧と眺めていたとき、大きなインパクトを与える人たちにであった。コペルニクスの「地動説」を支持したガリレオは、宗教裁判にかけられて投獄され、墓碑を建てることも禁止された。法王庁が裁判の誤りを認め、ガリレオの破門がとかれたのはなんと1992年のことである。額田王は朝鮮人であるーこれはまさにコペルヌクス的転回と言えるだろうか?
紀元前後、朝鮮の上層階級には、漢字を自在につかう者がいくらでもいた。このことは、高句麗建国の映画などからも明らかにうかがえる。日本より300年以上も前から稲作に精通していた朝鮮人は、BC300年ごろ(弥生時代の始まり)から、稲作めざしてこの島(国意識はなかった)へ渡来しはじめた。従って、日本の稲作は最初から完成した形ではじまっているという。渡来人の増加のために、弥生末期のこの島の原住民の子孫と渡来人の人口比は、埴原和郎・小山修三などの説によれば、「1対9.6」になったと言われている。このような移住民の増加は、縄文人の言葉(方言)が渡来人の言葉(方言)によって席捲されたことを示唆する。当時、この列島の住民の90%は渡来人であっただろうと金達寿などは述べている。
しかし、渡来人のほとんどは農民であって漢字を知らず、漢字を駆使できるのは一部の上層階級の人たちにかぎられていた。『記紀』『万葉』が生まれる以前、文字化された文学作品のようなものがなく、7〜8世紀頃それらを書いた人たちが上層階級のエリートであったことから、漢字の世界はごくかぎられた当時の知識層のものであったことがわかる。
これらの知識層は大和朝廷を中心に活躍していた人たちで、彼らの生活の本拠地は飛鳥地方であった。「日本交通公社」の『大和めぐり』に、飛鳥地方の住民の八〜九割が渡来人であったと書かれているそうだが、『続日本記』『姓氏録』などによって、飛鳥地方の当時の人口がほぼわかるという。飛鳥地方を中心に活躍していた聖徳太子は、蘇我氏(朝鮮人 当時の実質天皇)の一族で、その妻は蘇我氏の人である。日本最古の寺院「飛鳥寺」は蘇我氏の氏寺である。小山修三が、「大和に最初の統一政府をつくったのは渡来人である」と述べ、柳宗悦(濱田庄司や河井寛次郎らとの交友をはかりながら日本民芸館を創設)が「飛鳥〜奈良時代につくられた国宝、寺院、仏像、書画などは韓国の国宝とも言える」と述べていることから推測すれば、日本文化の大いなる始まりは、「飛鳥〜奈良時代ごろに集中的に渡来した朝鮮半島の人々による」とするのが自然である。
西暦663年、『白村江の戦』で新羅にやぶれた百済から五万人が渡来したという説がある。『日本書紀』によれば、天智天皇は、当時の亡命者を、近江(滋賀)の蒲生郡あたりに3000人近くを住ませ、無償で農地を与え、官食を三年間も与えたという。百済の高官66名が政務次官なみに登用され、「法務大臣(法官大輔)」「文部科学大臣(学頭職)」になった人もいる。百済から来たばかりの高官「鬼室集斯」が朝廷の学頭職になったということは 「言葉の問題がなかったことを意味している」と佐々克明は述べています。西暦667年、天智天皇は都を近江に移している。額田王の父 鏡王は、近江の蒲生郡に住んでいたと言われている。
『白村江の戦』で天智が三万に近い兵を送ったという記録は、「百済と大和は血縁関係にあったことを示している」と金達寿、佐々克明、洪思俊(扶余博物館館長)らは述べている。大和朝廷では、ますます百済系の勢力が大きくなり、「百済、国ごとの引っ越し」などと司馬遼太郎をもって言わせ、「百済が大和に移った」という文人・研究者もいる。「日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、『白村江の戦』の敗北で渡来した百済人で、『日本』という国号をつくったのも百済人である。『大化の改新(645〜701)』は、藤原鎌足、安倍内麻呂、金春秋、高向玄理などの渡来人によって行われた。」と文定昌は述べている。また、『大宝律令(701年)』制定の中心メンバー藤原不比等は鎌足(百済人)の子である。不比等は本妻の娘を文武天皇、後妻の娘を聖武天皇の妃とさせ、藤原氏の基盤を築いた大人物とされている。「出雲古代博物館」の名誉館長 上田正昭らの対談集によれば、『日本書紀』は「百済人を主軸に書かれ、天皇・朝廷のプロモーター藤原氏の都合がいいように整理されている」という。
額田王の義母 天智の母(斉明天皇)は、吉備の豪族(朝鮮人)から朝廷に入った人である。吉備王朝は、「鬼の城(朝鮮式山城)」を根城に日本最強の勢力(大和王朝以前)をもっていたという。天智のひ孫「桓武天皇」の母は百済の名王「武寧王」の後裔である。
額田王の父、鏡王は、近江の蒲生郡鏡山村に住んでいたという。権叉根は「鏡山村はわが国最初の須恵器(朝鮮土器)の生産地で、新羅の王子 天日槍の伝承がある地なので、朝鮮人集落であったことは瞭然である」と『古代朝鮮語と朝鮮渡来人』で述べている。蒲生郡にある「鬼室神社」の祭神は、『白村江の戦』の敗北で渡来した百済人「鬼室集斯」で、朝廷の「文部科学大臣(学頭職)」になった人です。長きにわたり学問の神様として参拝に訪れる人が多かったという。
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
この歌は、額田王が近江の蒲生野(標野=禁野)での狩に同行したときのものとされている。当時、標野などへ女性が同行することはなかったなかで、額田王が同伴したのは、生地が蒲生野の近くにあったからだという。新羅、百済などの王朝は、薬草のプロを養成して、「標野」での管理・栽培をさせ、王族・朝廷の人々の医薬品として役立てていた。「蒲生野」はその日本版であったと言えるでしょう。額田王の歌の万葉仮名をみる。
茜草指 武良前野行 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
この万葉仮名をみて驚くことがある。「朝鮮語は日本語にとても似ている」とほとんどの学習書や、朝鮮語に関する本の序文などに書かれている。理由の一つは「語順・一文の語数がほとんど同じ」だからである。朝鮮語を学習しながら「語順」が同じなので喜んでいると、「否定語」が「動詞の前」にくるので「おやっ」と思ってしまう。そんな調子で万葉仮名の歌をみていると、「否定語」が「動詞の前」にきているので、また「おやっ」と思ってしまう。
例えば『万葉集』の歌
〜花耳開而 不成有者 誰恋迩有目 〜丹生乃河 瀬者不渡而 由久遊久登
〜春去来者 不喧有之 鳥毛来鳴奴 〜風乎時自見 寝夜不落 家在妹乎
などは否定語が動詞の前にある。上記の額田王の歌は、「野守者不見哉」の部分だけが逆になっている。これらの文をみると、万葉集は朝鮮語で書かれていると述べる研究者たちの説を肯定したくなる。
さらに言えることは、「哉(や)」が「古池や〜」「名月や〜」の「や」にそっくりで、ハングルの「야<ya>」と同じではないかということです。「야<ya>」は多感な感情を表すので、俳句などによく使われる詠嘆の「〜や」に似ている。例えば、「헌못이야 古池や」「명월이야 名月や」などの「야<ya>」と「や」は同源の言葉であると思わせる。俳句にかぎらず、「춥다야 寒いや<寒いなあ>」「덥다야 暑いや<暑いなあ>」の「야<ya>」「〜や」も同じ言葉でしょう。大阪弁では、文末語尾に「〜や」をつける傾向があるが、朝鮮語の影響によるものでしょう。奈良時代頃から、大阪近辺は、韓半島からの渡来人が多かったと言われているのは、このような言葉からも推測できる。
「万葉仮名」は日本で発明されたものではなく、古代中国でも「漢字の音を利用する表記」があったと言われている。このことは、サンスクリットで書かれた経典を、漢字の音を使って表記している経典を見ればわかる。また、百済の「吏読表記」が「万葉仮名」になったと色々な研究者が述べているのも当然のことでしょう。「吏読表記」が発展した『郷札(郷=自国) (札=書礼=文)』は「万葉仮名」に酷似していると言われている。
紀元前、アルタイ山系付近にいた騎馬民族は高度な言葉をもち、世界最古の経典『リグ・ヴェーダー』をたずさえてインドに侵攻して印欧語の礎を展開させている。アルタイは「金」という意味で、アルタイ山系付近は金に恵まれていたという。朝鮮半島の古墳から、「金冠」「金の装飾品」が発掘されるのは、アルタイ民族の侵攻による影響によるという説がある。このことは、朝鮮民族はアルタイ系の人種であるという説を裏づける。
「高松塚古墳」は高句麗のミニチュア版の一つであると平山郁夫は述べている。古代における日本文化は朝鮮文化の連続線上にあることは間違いないだろう。朝鮮語がアルタイ語族に属すると言われているように、日本語もアルタイ語族の系統にあるとする研究者たちの説は正鵠を得ていると思われる。
「冠位十二階の制定(603年)」「十七条憲法(604年)」以前、まとまった文献らしきものがなく、『万葉集(7〜8世紀)』『古事記(712年)』『日本書紀(720年)』以前、これに匹敵する文学作品は皆目ない。従って、日本列島においては、縄文時代の子孫である原住民の自然な言語重層から発展したと思われる高度な芸術的文献現出の言語史がみえてこない。『万葉集(7〜8世紀)』『古事記(712年)』『日本書紀(720年)』の芸術度はあまりにも高次元の世界にある。
百済人主軸の朝廷は『日本』という国号をつくり、『日本書紀』を「独立宣言?」として祖国朝鮮と乖離したのではないかと思われる。以後、日本神話を誇張し、日本民族の開祖はスサノオであるかのような民族史を拡大しながら朝鮮隠しを始めたという説は、北方民族の「天孫降臨神話」を模してフィクション化された『記紀』『出雲国風土記』の神話に裏づけられている。
天智(663年)〜桓武(784年)を中心とする百年余りの周辺に、とつぜん集中的に現れた「言葉に堪能な超特大の能力者たち」が、血肉となっている言語文化の川の先端で、言葉を構想・構築しながら作品の制作に情熱を傾注していたのではないかと推測される。「貧窮問答歌」で知られる「山上憶良」は、『白村江の戦』で敗北したとき百済の宮廷侍医をしていた「山上憶仁」に連れられて渡来した歌人である。「額田王」「山上憶良」の素生からも推測できるように、アルタイ語系の豊潤にして巧緻な言葉を駆使でき、渡来人のなかでもとりわけ漢字に精通していた人たちの子孫によって『万葉集』はつくられたものであることは間違いないでしょう。
ソウル市内の国立中央博物館で12月4日、韓国の「檀君神話 と「日本の建国神話」 を比較考察する学術会議が開催された。アジア史学会会長の上田正昭氏の論文が事前公開され、「天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」との記述に注目が集まった。
日本の建国神話は、韓国の「檀君神話」の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められている。「日本神話」は、主に8世紀初めに書かれた「古事記」と「日本書紀」の記述がもとになっている。「檀君神話」は韓国の国定教科書にも記載されている。
日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、日韓の天孫は、山頂に降臨しており、共通点が多いと主張。百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘している。
また同会議に出席した、京都産業大学文化学部国際学科の井上満郎教授は「韓国の檀君神話と伽耶の首露王は、日本神話に登場する天孫ニニギと同じような要素を持っている。日本の天孫降臨神話が朝鮮半島系ということは疑う余地がない」と述べている。
韓日天孫文化研究所所長のホン・ユンギ氏は、日本の建国神話は、天孫が降臨する「檀君神話」などをはじめとする話を織り交ぜて作られたものであり、「三種の神器」も「三種の宝器」として「檀君神話」に登場する。日本の代表的な民族学者、東京都立大学の岡正雄教授も、すでに1949年にこれを認める発表をしている。
韓日天孫文化研究所所長のホン・ユンギ氏は「伊勢神宮を建てたときに、日本の国粋主義の学者が伊勢神宮の檀君信仰を抹殺し、天照大神を新たに主神とした」と主張している。
奈良朝末期、飛鳥地方(当時の政府の中心地)の住民の80〜90%は韓半島からの渡来人であったということについて、『日本交通公社刊』の案内書「大和めぐり」に次のように書かれていたという。「大和は日本で一番の文化地帯で政治の中心地であった。宮跡・帝陵・古墳などが多く、漢氏・秦氏・蘇我氏などの有力な氏族をはじめとする渡来人が多く居住して、朝廷に仕えたり兵士になっていた。秦氏たち移住民は財力をたくわえて、長岡・平安京の遷都に貢献した」。これは、飛鳥における住民の渡来人説を裏づけるものである。
蘇我氏の専横のため、天智と謀略して蘇我入鹿を暗殺した藤原鎌足は百済人で、その子 藤原不比等は「大宝律令」の編纂の中心メンバーとなり、わが娘を文武天皇の夫人とし、さらに、文武の子が聖武天皇になるにおよんで宮廷内での勢力を不動のものとしました。後妻との間に生まれた娘を聖武天皇の皇后にさせるにいたって、不比等は藤原氏繁栄の基盤を築いた大人物とされている。その後、藤原氏は、千三百年にわたり、日本の政治・宗教・文化の頂点に君臨し、「古事記」「日本書紀」「続日本記」「日本後記」「日本三代実録」・・その他の史料のほとんどは藤原氏の手によって編纂されているという。
藤原道長(962〜1027)の歌「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることの無しと思へば」は、藤原氏のおそるべき権勢の大きさを示すものである。藤原氏は、明治・大正・昭和にいたるまで、政財界唯一の実力者で、天皇家・藤原氏の冷泉家では、「母」を「おも(어머<omo>)」と言うそうである。藤原氏の歴史は、日本民族の歴史・文化がどのようにして形成されてきたかを象徴的に物語っている。
徳川幕府崩壊直後の明治元年(1868)の内閣最高幹部「左大臣藤原道隆、右大臣藤原家信、同従一位藤原実美、内大臣藤原実徳、内大臣正二位藤原忠順・藤原宗弘・藤原資宗・藤原雅典・藤原光愛・藤原胤保・・」などからも藤原氏の勢力がいかに強力なものであったかがわかる。
飛鳥地方に居住し朝廷につかえた知識層は、「宮廷文学(王朝文学)」の作者として言葉の文字化に貢献した。「宮廷文学」の文字言葉は、後々の種々の文学に継承されて発展し文学語として定着した。平安〜鎌倉期、「宮廷文学」の系統をもついくつかの代表作品には、「古今和歌集」「土佐日記」「枕草子」「源氏物語」「更級日記」「方丈記」「徒然草」「平家物語」・・などがある。これらの作品の言葉は、江戸・明治・大正の文学作品の言葉(文字)の水源となり今日に至っている。
古代朝鮮語が日本語のルーツであるという証拠を見せろという人があるが、この答えはすでに明らかである。例えば、梅原猛は「芸術新潮(2009年)」の大特集「古代出雲王朝」で、「日本書紀の記録や出雲で発見された古墳・遺跡・大社の社などから判断すれば、スサノオは朝鮮半島から出雲へ来たという説が正しい。スサノオがヤマタノオロチを切った刀は韓鋤の剣であることからしても、スサノオが韓国から来た神であると考えるのが最も自然であろう。スサノオに始まる出雲王朝には朝鮮の影が強く差している。」と述べている。この説を唱える人は、梅原猛が初めてではないが、梅原が述べたこと自体に大きな意味がある。日本人の祖先は「天孫降臨」によって生まれ、増幅し、発展した民族ではないことを再認識させる。
さらに、梅原猛は、著書『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』で、「出雲王朝の創立者は韓国系と考える。その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。銅鐸の起源は韓国の貴族が双馬馬車につけていた鈴だ。スサノオが韓国からきたとする説はますます有力になっている。新しい日韓関係を見せてくれる。韓国に注目しなければならない。古代日本にとって、韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた。」と述べている。
「スサノオ」が新羅から来たのは、「タタラ流し」の集団が朝鮮南部から渡来したAD4世紀ごろ(司馬遼太郎などの説)ではないかと述べる研究者もおり、8世紀初頭に書かれた『記紀』の神話は、「タタラ流し」のリーダー「スサノオ」の伝説をモデルとしたものであるという説もある。当時、「鉄(剣)は王のシンボル」であった。
明治〜昭和における学校教育の拡充、新聞・書籍・ラジオ・テレビなどの急速な普及は、「宮廷文学」の文字言葉を日本列島全域に浸透させ、日本人の共通語として使われる流れに拍車をかけた。現在の日本の標準語が古代朝鮮語(主として百済語)に由来していると言えば、ほとんどの人は信じることができないでしょう。しかし、『万葉』『記紀』の言葉の膨大な量と、その豊潤さ、巧緻さなどをみるとき、それらの言葉が、縄文・弥生・古墳時代を経過して来たものであると想像するには、あまりにも高度な芸術域に達している。この業と巧みは、血肉となっているハイレベルの言語文化を、代々受け継いで来た人たちでなければなしえない業だろう。
現日本語のルーツが古代朝鮮語にあることを信じられない人は多いだろうが、1,300年にわたり日本歴史に具体的な跡を残した藤原氏そのものに、日本の言語史の跡をはっきりと見ることができる。藤原氏の歴史は、日本の言語史の出発と結果を何の疑念もなく示していると言っても過言ではない。
「民族の大移動」という言葉があるように、弥生〜奈良時代ごろ、朝鮮半島の住民による倭国へ大移動が継続された。従って、その間に、倭国の文化が大きく変貌し、原始社会的な縄文時代の文化が、BC300年頃から急激に変化し人口が急増している。朝鮮半島は、中国に隣接しているために、日本よりおよそ300年前に稲作が始まり、紀元前後ごろ、上層階級には漢字に精通している人が多かった。そのような民族が、温暖で農作業に適した気候の土地を求めて、この島へ集団移住を始めたのである。このような説を述べる研究者は多く、例えば、片岡宏二 高寛敏 森田悌 金達寿 柳宗悦 松本清張 井上光貞 佐々克明 小山修三 金容雲 上田正昭 朴柄植 権叉根 金思Y 国弘三恵 洪思俊 李寧熙 文定昌 司馬遼太郎 埴原和郎」・・などがいる。
小山修三(文化人類学者 国立民俗学博物館名誉教授)、森浩一(歴史学者 同志社大学名誉教授)らの論考によれば、弥生時代末期の倭国の人口は約60万である。100万を超えていたかもしれないとも述べている。縄文約一万年に対して弥生時代は約600年間だから、比べものにならないスピードで人口が増加している。縄文人と渡来人の混血によって人口が増えたという説もあるが、『岩波日本通史』の第一巻「日本人の形成」に、「縄文人と渡来人との混血はなかった」と述べられているという。中国に隣接している朝鮮は、倭国よりはるかに人口が多かったのである。
埴原和夫らのシミュレーションによる人口動態の数値からすれば、現日本人の祖先のほとんどは縄文人ではなく韓半島の民族で構成されていることになる。学問的な統計などなくても、日本列島の祖先が大陸<朝鮮半島>から渡来したことなど常識的に推測できる道筋でもある。四面を海で囲まれている日本へ、南洋方面から航海したり、中国沿岸などから東シナ海を横断することは至難の業である。釜山から対馬は山上から見える距離にあり、海がないでいれば日帰りできるほどだという。全栄来(全北日報論説委員、全北道立博物館館長、韓西古代学研究所所長、文学博士)は著書『百済滅亡と古代日本』で、「対岸が見えるということは、渡航者に勇気を与え、さらに、対馬・壱岐の二つの島が渡航の要衝として役立ち、朝鮮人の渡来を容易にした」と述べている。
稲作による食料増加のため人口が増えたと主張する人もあるが、小林和正(京都大 人口問題研究家)の説によれば、縄文時代の子供の平均寿命は十四才強である。弥生・古墳時代になっても、子供の平均寿命は変わらず、室町の平均寿命十五才強と比べてみても決して大げさな数値ではないことがわかるという。この理由として「幼児の段階での高い死亡率」を筆頭にあげている。さらに、「出産にともなう母親の死亡」「結核などの疫病の蔓延」「栄養不良」「厳しい自然環境への不適応」・・などが大きな理由としてあげられている。縄文時代の十五才以上を対象にした平均寿命は約三十才で、弥生時代にもほとんど変わらず、江戸時代の平均寿命が四十才強とされていることからも誇張された数値ではないという。
中国人が朝鮮半島の北方から海岸沿いに南下したという説もあるが、釜山あたりに到着するまで何回となく寄港しなければならないので、金目のものでも携帯しておれば殺戮の憂き目に会うこと必至であっただろう。中国人が日本への渡航を成功させたとしても、その数は数えるほどであったに違いない。中国大陸は広大で、南方方面へ移住すれば稲作を容易に続けることができるのに、あえて日本へ危険を犯して渡航する理由は希薄である。朝鮮人の場合、戦乱の恐怖、寒冷による生活の不自由さ、日本列島への渡航の容易さ、日本での稲作の魅力などからすれば、数十万、数百万の人々(農民を主とする)が日本へ渡来したことはごく自然な経過である。
古代朝鮮語が日本語のルーツであるという証拠を見せろという人があるが、この答えはすでに明らかである。例えば、梅原猛は「芸術新潮(2009年)」の大特集「古代出雲王朝」で、「日本書紀の記録や出雲で発見された古墳・遺跡・大社の社などから判断すれば、スサノオは朝鮮半島から出雲へ来たという説が正しい。スサノオがヤマタノオロチを切った刀は韓鋤の剣であることからしても、スサノオが韓国から来た神であると考えるのが最も自然であろう。スサノオに始まる出雲王朝には朝鮮の影が強く差している。」と述べている。この説を唱える人は、梅原猛が初めてではないが、日本人の祖先は「天孫降臨」によって生まれ、増幅し、発展した民族ではないことを再認識させる。
さらに、梅原猛は、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』という本で、「出雲王朝の創立者は韓国系と考える。その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。銅鐸の起源は韓国の貴族が双馬馬車につけていた鈴だ。スサノオが韓国からきたとする説はますます有力になっている。新しい日韓関係を見せてくれる。韓国に注目しなければならない。古代日本にとって、韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた。」と述べている。
「スサノオ」が新羅から来たのは、「タタラ流し」の集団が朝鮮南部から渡来したAD4世紀ごろ(司馬遼太郎などの説)ではないかと述べる研究者もおり、8世紀初頭に書かれた『記紀』の神話は、「タタラ流し」のリーダー「スサノオ」の伝説をモデルと
したものであるという説がある。当時、「鉄(剣)は王のシンボル」であった。
「日韓語の漢字」は中国の漢字とは相当に変化している。漢字の発祥地は中国でありながらも朝鮮の漢字音と意味は変化し、飛鳥〜奈良時代、朝鮮からの渡来人(知識層)がそれらの漢字を日本へもち込んだ。日本の漢字は中国の漢字と同じであると思い、殊に、音読みすれば中国語の漢字音に近いだろうと、中国の人名・地名・・などを音読みにするのは変な話である。かっては、朝鮮半島の地名・人名(漢字)も音読みしていたが、韓国政府の要請により韓国の漢字音に改めている。
漢字文化に慣れ親しんできた日本人は「漢字を礼賛する傾向」があるので、漢字廃止論などを表にだすと猛烈な反対論に出くわす。しかし、「漢字はいかなる文字であるか」を色々な角度から分析していくと、漢字ぐらい「原始的な文字」はない(特殊社会では別)。西洋言語学では「文字は話し言葉の影であり記号である」とされている。漢字は「世界唯一の古代文字」で「文字の化石」とも言われている。ブリタニカの百科事典には「古い言葉、未分化のものほど非体系的・非統合的である。部分的・直感的でシスマティックでないのは、幼児・下等動物が統合性にかけた行動をするのに類似する」と書かれている。例えば、未開社会の人々が、「犬」と「魚」の数を表す「三」を異なって言うのに類似する現象だという。
日韓語の漢字と中国の漢字 (2)
漢字がいかに非合理的な文字であるかは、現在の中国における漢字の使い方を見ればわかる。中国は、終戦前後ごろ文盲が多く、女性の約40%が文盲であったという恐るべき話もある。現在の中国では漢字が簡略化され、「豊」は「丰」、「業」は「业」、「為」は「为」、「個」は「个」などとなっている。これらの簡略文字を日本人は奇異に感じ、簡略しすぎていると言う。しかし、中国の外来語表記を見れば、漢字の進むべき宿命を示唆しているような気がする。中国は、洪水のごとく流入する外来語(人名・地名・スポツ・医学・科学・・)の対応に混乱している。例えば、「熱狗 ホットドッグ」「一対男女 アベック」「空中小姐 スチュワデス」「投手土台 マウンド」「西紅柿 トマト」などと表記されている。このグローバル時代の言葉に歩調を合わせることが困難になった中国では、現在、ピンイン文字の教育に力を入れ、五十年後には漢字を廃止すると言われている。「黄鼠狼 イタチ」「蜂斗叶 フキ」など、星の数ほどある動植物名の漢字語は戦慄をおぼえさせる。
朝鮮では、「漢字は民衆の知識習得の妨げになる」ということで、王の指示によって文字の大衆化がはかられハングルが発明された。「覚えやすい文字は上流層の地位をおびやかす」ということで、両班を中心にした大きな抵抗があり、ハングル化への道は平坦でなかった。しかし、音標文字であるハングルは、母語の表記に便利であったため、皮肉にも両班の女子に好まれ、また、民話などの表記に陰のように使われていた。戦後、ハングルが表舞台で目立ちはじめたが、殊に、李承晩大統領がハングル化に拍車をかけてから、書籍をはじめ街頭の看板でさえハングル一色の傾向を見せ始めた。中学校で週1〜2時間の漢字教育が行われているが、旧漢字のままということもあって、自分の名前さえ書けない人が増えている。駅、空港などの漢字は案内表示のためのものである。
漢字の固辞派も時代の潮流にはさからえず、漢字は消滅化への道をたどりつつある。最近、韓国では、漢字教育を見なおそうとしているという話を耳にするが、韓国は旧漢字を使用しているので多難の道ではなかろうかと思われる。同音意義語の問題もあるが、ハングルのやさしさから比べれば、その効率・便利・学習時間の減少・・などの有利な条件を軽視して、ハングルを漢字化することは不可能であろうと思われる。漢字国中国が五十年後には、ピンイン文字化すると言われている今日、韓国がハングルを止めることは時代の逆行ではないだろうか。
日韓語の漢字と中国の漢字 (3)
日本にはカタカナがあるため外来語の表記に中国のような苦労はない。このことはハングルの場合も同じで、ハングルの方が日本語より正確に外来語を表記できる。しかし、カタカナがあると言えども、漢字を多用する日本は、不思議な文字使用が続けられている。
世界に、フリガナをつける国はなく、国家主席「胡錦涛(フチンタオ)」を「コキントウ」と言っている。日本の地図帳では、中国の地名は現地音(カタカナかフリガナ付)になっているのに、新聞(朝日新聞は別)・雑誌・テレビでは日本式の音読みが採用されている。「広州(コワンチョウ)」を「コウシュウ」と言っている。優勝選手の名前が電光掲示板・テレビ画面にローマ字で表記されているのに、アナウンサーは日本式の音読みで叫ぶ。国際会議などで、知名度の高い中国人の名前を、日本式の音読みで言えば出席者は唖然とするだろう。
日本語を学習する外国人は、音の重さを軽視して文字が自在におどっている漢字に辟易している。日本人は「蝉時雨」「氷雨」「的外れ」「鎧」「兜」のような文字を「万華鏡」のように楽しみ、その不思議な文字は世界遺産となるほどの史跡性を内包させているだろう。
日韓語の漢字と中国の漢字 (4)
日朝語の漢字は親である中国語に似ていると思いがちだが、中国語の漢字は相当にかけはなれている。日朝語の漢字の音とコンテンツは実によく対応している。同じ漢字語を中国語と比較するとき、中国語は別の漢字で表現する場合が多い。例えば、「愛着→留恋」「哀調→悲調」「愛嬌→可愛之処」などとなる。また、日朝語と中国語の漢字音を比較すると、「選挙=선거<sonko>=選挙<xuanju>」「閣僚=각료<kakulyo>=閣僚<geliao>」「歌手=가수<kasu>=歌手<geshou>」などとなり、日朝語の漢字音はそっくりであることがわかる。
日本と朝鮮について「近くて遠い国」という話をよく耳にする。その理由として、類似した基礎単語が2百語あまりしかないからとよく言われる。しかし、一方で、「欧米の言語学のように類似した単語の数ばかりに頼らないで、多面的な観点から比較する必要がある」という説がある。例えば、漢字の視点から比較してみる。日本の漢字文化は朝鮮からの渡来人によって形成され、代表的な文献『記紀』『万葉』は渡来人によって書かれいる。日本語の漢字の音は朝鮮の漢字音に類似し、異なるように思える漢字音も規則的な音転訛によって変化している。「日中辞典(小学館)」と「朝鮮語辞典(小学館)」によって音と意味が対応する熟語をピックアップすると、中国語と異なる日韓語の対応語(熟語)は5000種を超える。
日韓語の漢字と中国の漢字 (5)
中国語と同音の漢字でも、漢字の意味が中国語とはかなり異なっている。朝鮮での漢字使用は紀元前後から盛んになったようであるが、7〜8世紀ごろ集中的に渡来した朝鮮王朝のエリートにより日本での漢字使用が盛んになるまで約800年ぐらいある。その間に、朝鮮での漢字文化は中国語を離れて独特なものに変化し日本語の漢字になっている。
例えば、「타류<talyu> 他流」が中国語では「別流」になる。「단주<tanju> 断酒」が「忌酒」、「구분<kubun> 区分」が「分割」になる。また、音の比較をすると、「무욕<muyok> 無欲」が「無欲<wuyu>」、「목조<mokcho> 木彫」が「木彫<mudiao>」、「야간<yakan> 夜間」が「夜間<yejian>」と発音される。
朝鮮語の漢字は旧漢字であるため、ハングル化と重なってますます漢字を好まない人が増えている。現在、日本語の漢字に「覺」「團」「爇」「寫」「變」・・のような漢字が多ければ、漢字を覚えることに膨大な時間を費やしている学童をさらに悩ますことになる。中国語ほど略字化しなくても、「褒」「淵」「躙」「瞰」「齢」「膚」「賓」「朧」「纏」「癲」・・などの漢字の画数を減らせないものだろうか。十五世紀、世宗大王は「だれもが読めて書ける文字」としてハングルの創造という偉業をなしとげた。ベトナムは漢字の弊害を解消するためにローマ字化し、中国も五十年後にはピンイン文字化すると言われている。
日本も、世界の学童と同じ時間で学習効果を高めようと思うなら、生活の根幹である文字の歴史を見なおす必要があるだろう。最高学府の教育を受け、20
〜30年も語学にかかわっていながら、「書けない文字」について慨嘆するのは漢字圏の人だけではないだろうか。五十年もすれば、世界で漢字を使っている国は日本と台湾だけになっているかもしれない。